昭和五十七年七月四日 朝の御理解


御理解 第九十五節
 「世には神を売って食ふ者が多いが此方は銭金では拝まぬ神を商  法にしてはならぬぞ」


二代金光様、四神様は、此方の道は病気治しや災難よけの神ではない、心治しの神ぢゃと教えておられます。
今日の御理解を頂いて、病気が治りますようにと御祈祷をお願いする。一家安全を守ってもらう為に守り札を買って来るという事ではない、という事ですよね。
お守り札を出すわけでもなからなければ、御祈念料、御祈祷料を取るというわけでもない。金光様の御信心は、ね、どこまでも、病気治し、災難よけの神ではない。心治しの神だという、ね。心を改めていく、心を豊かに大きくしていく、ね。そういう手立てを天地の道理に基づいて教えるのが、金光様だと云うのです。
昨日は、梅の実会でございましたが、本当に、若い嫁さん達ばかりの、ま、集いですけれども、段々、あゝして研修を致しまして、信心が非常に、皆進んでまいりました。
やはり、この人達にはやはり難しいかろうと思われるようなところを、も、本気でそれに取り組んで、信心は容易いものぢゃという信心に入っていこうとしておる人達が、ま、殆どで、特に、も、皆、今、子持ちの方達ばかりですから、子供の事を通して、ま、信心を頂いていっておるという人達が、ま、殆どでございました。
手嶋さんという人が、熱心に参って来ますが、子供さんが、こう、足がなえてしまってますから、去年頃までは、ね、こ、抱いて参ってくるのもよかったけども、もう、大きくなって全然お話が出来なかったのが、この頃は、も、えらいお喋りをするようになって、なかなか親の云う通りにならないし、また、その、身体も大きくなってまいりますから、先だってのお参りの時に、すぐお参りをして帰って来るから、家に置いてお参りをしょうとこう思った。けども、やっぱり、あんな不自由な子供を一人置いてお参りをするという事も、なかなか思い切りが出来なかったけれども、こういう時に、どういう心持ちで神様へ向かったらよかろうかと思って、教典感話を開かせてもらった。そしたら、子を持って神様の親神様のお心を悟られよという、み教えであった、ね。そこで思った。
自分が、子供は主悦、主悦の事を思う切実心、それ以上に私の事を天地金乃神様は思うておって下さるんだと。その、天地金乃神様にお願いをしていくのだから、ね。私が、子供を思う以上の思いで、神様がお守りして下さるのに違いないと、腹が決まって参拝のおかげを頂いたというのです。
やはり、やっぱりむつかしいと云えば、むつかしいけれども、天地の親神様のお心がわかってまいりますと、むつかしい事ではない。も、こんなに容易い事はない。神様が守ってくださる、ね。それを信ずるという事なんです。それを信ぜれるという事なんです、ね。いうならば、“子供を持って合点せよ”とおっしゃる。子供がいうなら、切実に可愛いと思う、その心を持って、天地の親神様の心を悟ったというわけです、ね。悟までが難しいのである、ね。信心は悟りなり、とこう云われておりますが、ね。だから、その気になれば容易い。その気にならんから信心は難しい事になる。
御理念に基づく生き方というのが、ね、簡単ですとか、明瞭ですとか、おかげが確かですとか云われるけれども、その、簡単です、明瞭ですという事もです、神様を、言うならば、信じなければ、神様がわからなければ、やっぱり難しいんだという事。
今日の御理解は、ま、教師に対する御理解だと思うんですがね。
銭金では拝まん。商法にしてはならん。ですから、これを、なら、信者側の方で頂いたら、どういう事になるだろうか。
四神様のおことばぢゃないですけれども、ね、ただ、おかげを、おかげをというのが、金光様の御信心ではなくて、心直しの神ぢゃと心を決めていく。いうなら、悟らせて頂く、み教えによって心が開けてくる。それがお道の信心ぢゃ、その、開けてくるその心に、手嶋さんぢゃないけども、天地金乃神様の、成る程、御守護を受けておるなという実感、体験がそこに生まれてくる、ね。
取り次ぐ者、取り次がれる者、ね、そこに私は、取り次ぐ者も、いうなら、お取り次ぎという事を商売、商法にしてはならん。また、取り次がれる者、願う者も、ね、おかげを求めてというものではなくて、いよいよ信心を求めて、という事になるのぢゃないでしょうか。ま、今日の御理解に対する信者としての、ま、答えというならば、金光教の信心は、ただ、銭金ではない、お金で御祈念をしてもらうのではない。お金でお礼を買って、例えば、お守り札ならお守り札だけで、というのではない。どこまでも、いうなら、信者の真0を神様へ取り次がせて頂き、ね、信者もその真心になる事、信心になる。真心とは、信心になる事を、ね、願いとしての生き方。
そういう姿勢が大事だ、ね。そこに、取り次ぐ者、取り次がれる者の、ま、何ていうですか、ぴったりかんと云いますか、ね、が、生まれてくると思うです、ね。
神様と取り次ぎ者、取り次ぎ者と取り次ぎを願う信者氏子、その、いうならば、ぴったりとしたものが、ね、一つの、ま、流れのようにスムーズに流れて、初めて金光様の信心によるおかげという事が云えると思うです、ね。
ただ、商売繁盛を願う。願うならば、御理念に基づく商売という事になると、も、いよいよ、お客さんい喜んでさえもらえばという精神でなからなきゃならん、というように、ね。ただ、商売繁盛、ね。お願いして来たというだけの神様ではない。世の中にはそういう神様がおられる。商売繁盛の神様、病気治しの神様、いわゆる、災難よけの神様、そういう神ではない。どこまでも、いわゆる、心治しの神だ。おかげの頂けれるその元を、根本を教えてもらう、ね。
ですから、そういう私共が、生き方になりませんとね。いわゆる、そのぴったりかん、が生まれて来ないのです、ね。ちぐはぐなんです、ね。それには、私共がむつかしいけれども、ね、教えを本気で行ずる事だ。手嶋さんぢゃないけれども、ね、ま、あゝした、いうなら、子供をかかえておられるから、子供に対する、ま、情けというものは、ま、よその親よりもやっぱ強いでしょう。本当に可愛いとこう思われるでしょう、ね。けれども私が、その子供を思う、思うよりも、ね、天地金乃神様は、もっと大きな思いで、私の事を思って下さるんだ、とね、わかった時に、それを断行した、ね。
成る程、天地の親神様の御守護を受けておる
                              その日、帰らせて頂いたら、普通帰って来ない筈ぼ主人が帰って、子供を見ておってくれたと、こう云うのです、ね。神様の働きというものを、ね、おそれいる、ね。その、恐れ入った心で私は神様に向かうということ、ね。だから、その教えを行ずるという事から生まれてくる悟り、ね。
そういう心で、いうなら、お取り次ぎを願う。いうなら、心直しの神ぢゃとおっしゃる、心を改めて、正して一つの悟りの、ま、境地というか、をもって、お取り次ぎを願う時に、いわゆる、お取り次ぎの金光大神と、お取り次ぎを願う皆と、天地金乃神様との間に、一つのぴったりかんが生まれてくる。そこにおかげがスムーズに頂けるという事になるのです、ね。私は昨日、皆さんの梅の実会の方達の話を聞かせて頂いて、一番初めに、私、ここを退がろうとする時に、ある方がお茶を、“親先生、お茶の時に召し上がって下さい”と云って何か、福岡の大変有名な、あの、お菓子を持って来て下さった、もう、私は最近、身体がきつくなると甘い者を、こ、頂くんです。それ、昨日、ここに頂いたら、それをそのまま、あちらへ持って行って、それを一生懸命頂いて、それを、そして、皆さんにも一つづつ配らせて頂いた。
このお菓子は、梅の実で出来とるお菓子です、と。いやあ、本当にぴったりかんだねと云うて、ま、云うた事でした、ね。梅の実会の時に、ね、そういうお菓子を、私、皆さんに一つづつ配る。そんな事から、ある方が発表してましたが、私は此頃から、しばらく信心から、神様から遠ざかろうと、ある事から思いました。ところが、おかげは普通に頂きますけれども、全然、その、ぴったりかんがない、もうちぐはぐ、ちぐはぐである。お商売をしとる人ですが、お商売は別に、お商売が少ないというような事はないけれども、その、ぴったりと、いわゆるタイミングが崩れてしまった。
それから、二、三日前から、またお祭りをさして頂いておりますが、もう、その日からタイミングが元に戻って、これはやっぱり、神様をおろそかにしちゃならんと、ま、判りました、といったような発表をしとる人がありました。
合楽の場合に、私は、そういう一つの神様と私共との間の生まれるタイミングというか、また、それをぴったりかんというふうに申しておりますが、その、ぴったりかんが出てくるわけです、ね。
それが、例えば、良い事、悪い事につけて、そのタイミングが合いますから、例えば、きつい事であっても、その神様との間のぴったりかん、いうならリズムにのっての生き方ですから、楽しうそこを乗り越える事ができる、そういうおかげを頂かして頂く事の為には、どうしても、いわゆる心を中心にする生き方を、まずお道の信心だと悟らしてもろうて、ね、心中心の、いうなら生きかた、心直しに焦点を置いての信心。
ただ参ったから、拝んだからと、勿論、なら、ここでも、ね、御祈祷料がいくらの、ね、お礼がいくらの、という事は申しません、ね。ですから、それが金光教の、ま、一つの御流儀なのですから、ご信心を進めていく者も、いわゆる金光様の信心の御流儀を、まず体得するという事が、私は、いうならば、ぴったりかんが生まれてくるというふうに、思います。
今日は、私、ここのところを頂いて、この方は銭金では拝まん、というような、ま、表現ですけれども、なら、この方は、そうですから、なら、私共、あなた方、いうなら御信者の皆さんも私共も、ね、銭金でおかげを買おうとは思わない。心一つで全てを創と云われるから、心一つに焦点を置かしてもらう。心一つを改めていける手立てを習わして頂くんだというふうに、その、ま、いうならば、お互いの信心の、過去の信心の イメージといったようなものが、アップされなければならんという事ですよね。
だから、お参りをさして頂く、その構えがね、これをお願いせんならんからぢゃなくて、このおかげを頂く為には、どう私が心を使っていったら良いか、というふうな信心になってくると、いうなら、おかげが有り難いという事だけぢゃなくて、信心が有り難いという事になってくるのぢゃないでしょうかね。
                     「 どうぞ 」